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信号

 わだかまりは心の奥底に沈殿していった。

 決して溶けることはない異物として。

 それでも、あたしは、好きで、好きで、どうしようもなく好きなのに、ストレートに表現することなく彼を待ち続ける生活を選んでしまっていた。

 その言葉を口にしてしまえば、自分が崩れ落ちて行くのがわかっていたからかもしれない。

 あたしの恋は「狂気」を孕んだものだったから……。 

 彼からの電話には眠っていても3コールから5コールくらいで起きて出ていた。

 あんまりにも電話に出るのが早いものだから、寝ていたとは思われなかったこともあった。

 合鍵を渡していた頃も、彼がきまぐれに帰って来るような明け方に近い深夜には、あたしは眠っていても必ず起きた。

 エレベーターから一番遠いあたしの部屋の鍵を開けて彼がドアを開けた時には、あたしは玄関先に立っていて、

「おかえりなさい」

と言っていた。

 あたしの耳は彼の足音を覚えていて、マンションの廊下を歩く彼の足音だけで目覚めた。

「起きなくてもいいのに…」

と彼には言われたけれども、起きようと思って起きたわけではなく、自然と目が覚めてしまっただけだった。

 あたしは、恋するたびに、好きな人の足音とか、ドアノブ回す時の間合いの感じとかなんかも覚えてしまっていたし、行動パターンはかなりの割合で把握していた。

 言われなくても察知してしまうことが多々あったわけで、それを「サトリのお化け」みたいで気持ち悪いと気味悪がる人もいれば、心地よく思い馴染んでくれる人もいた。

 唐突に、なんの根拠もなく、

「今、どこそこへ行けば彼に会える!」

という閃きによってそこまで走って行ったこともあった。

 そういう時は、本当に会えてしまって、自分でもちょっとびっくりした。

「恋する乙女は、超能力者になるのよ」

なんて風に友達には冗談言って笑っていたけど、恋している間のあたしの感覚は研ぎ澄まされていて、第六感まで過敏に稼働していた。

 だけど、彼は、あたしに、

「がんばれ」

とは言わない人で、逆に、

「無理しないで」

と言ってくれるような人だったから、自分の限界以上にがんばりすぎてしまう傾向にあったあたしには、ちょうどよかったのかもしれない。

 彼はあたしの魔法使いだった。

 あれだけ偏食が激しかった食わず嫌い女王なあたしに、

「おいしいから、食べてごらん」

という魔法の呪文と笑顔ひとつで、今まであたしが全然食べられなかった嫌いな食べ物を、ちょっと試しに食べてみようかな?という気にさせて、食べられるようにしてしまった。

 ちなみに、嫌いだったはずのしいたけが、今は好きな食べ物の方に入っているのは、彼の魔法のおかげである。

 まだまだ普通の人よりは好き嫌いは多いかもしれないけれども、彼と付き合うようになってから、以前のあたしと比べると、比べ物にならないくらい食べられない物が減った。

 どうして彼と一緒に食事する時は、食べられたんだろう?

 不思議に思う。

 でも、別れてから気がついた。

 あたしが食べたかったのは「あたしのお皿におばあちゃんがそっとのせてくれたあのお肉」だったんだって。

 彼と一緒に食事していた時の空気の中には、あのお肉があったんだってことに別れてから気がついた。

 なぜなら、彼と別れた後は、しばらくの間は何を食べてもおいしくなくなってしまっていたからだった。

 食べられなくなった。

 食欲も感じなくなっていた。

 自分が選んだ別れであったにも関わらず、精神を病んでしまっていたあたしの病状は更に悪化した。

 初診から4年後、あたしはまた精神を病んでしまい、再びメンタルクリニックに通うようになっていた。

 病名を訊ねてもその時の主治医は答えてはくれなくて、代わりに、

「家族の方とお話をしたいのですが…」

と言った。

 そして、札幌まで田舎からわざわざ出向いて来た父に、

「重症です」

と告げたのである。

 何の病気か教えもせずに「重症」とあの医師は言った。

 あたしは、あの時、薬の副作用でメタメタになっていた。

 当時は、メンタルの薬の知識がまるでなかったから、薬の副作用のせいでそういう風になることがあるということを知らなかったあたしは、自分の乳首から乳汁が漏れ出ていることに気づいた時にはパニくった。

「乳がんとか何か悪い病気かも?」

と思い薬を飲む前よりももっと不安になった。

 結局、婦人科へ行って内診やら血液検査をしたら、メンタルクリニックで出されていた薬の副作用で乳汁が出てしまったことがわかった。

 普段の生活では、注意力散漫になっていて、信号も見ずに道を渡ろうとすることがしょっちゅうあった。

 自分でもどうしてそんな風になってしまったのかわからなくて、病気が悪化しているせいだとあたしは思い込んでしまっていた。

 本当は薬の副作用でぼーっとしてしまって注意力散漫になっていたのだけれども、そんなことも無知なあたしは知らなかった。

 信号が赤でも気づかずに歩いて行ってしまうあたしを止めるために、彼は腕を組んで歩くようになった。

 あたしが荷物を置き忘れてはパニくってしまうため、彼はあたしの荷物を持って歩くようになった。

 あたしがどんどんおかしくなっていっても、パニくっても、彼は文句ひとつ言わなかった。

 彼には、高校卒業する前から重度の精神病を患ってしまい、一生療養決定と思われる状態の年の離れたお兄さんがいた。

 だから、そういう状態の人の扱いには彼は慣れていたのかもしれない。

 あたしがパニくると、

「あわてない、あわてない。落ちついて」

と言ってくれた。

 けれども、あたしは、怖くてたまらなくなっていた。

 どんどんダメになっていく自分に不安を感じていたし、彼にがっかりされるような自分を見られたくないとも思った。

 そして…あたしは、がんばっても、がんばっても、今まで普通に出来ていたことが出来なくなっていく不安感と恐怖に負けた。

『これ以上、彼のお荷物にはなりたくないし、彼に落胆されたくない』

 そう思った。

 彼のために何も出来なくなってしまった自分が一番許せなかったあたしは、一番許せない自分から逃げ出してしまった。

 彼が口に出して不満を漏らすことがなくても、あたしは彼のためにしてあげたかったことがきちんと出来なくなってしまった自分自身を許せなかった。

 こんなダメな自分をもうこれ以上彼に見られたくないと思ってしまっていた。

 その結果、自分から彼に別れを告げるという選択をしてしまった。

 だけど、別れても、彼のことが、好きで、好きで、どうしようもなく好きで……あたしは、壊れた。

 暴走した。

 暴飲暴食繰り返し、値札も見ずに買い物し、借金つくっては、がむしゃらに働いて返し、借金返済終わる頃にはまた派手な金遣いでもって新たな借金をつくった。

 それは、躁時の特徴のひとつである浪費衝動によるものだった。

 同病の…躁うつ病患者は、借金と結婚・離婚、あるいは別離や浮気を繰り返し、自分だけではなく、関わった人たちの人生までもめちゃくちゃにしてしまうことがある。

 躁うつ病と拒食と過食嘔吐を繰り返し、あたしの喉には逆流弁なんて本来健康な人間の体にはないものが出来た。

 あたしの喉にある逆流弁は、過食嘔吐で吐きぐせがついたため、吐きやすいように逆向きの弁が喉に出来たもの。胃カメラ飲んだ時に内科で指摘された。

 今は、過食嘔吐で胃が荒れて、食べなきゃと思っても気持ち悪いし、無理して食べても吐く拒食期。

 水飲んでも吐く。

 もう胃の中には吐くようなものは何も入ってないから、酸っぱい胃液と苦い胆汁しか出てこない。

 あたしはあまり眠れない方だから、気持ち悪くて起き上がっていられない時は、日がな布団の中で妄想する。

 食事替わりになる万能サプリメントはかなり本気で欲しいかも?

 目を開けたまま万能サプリメントの夢を見る。

「ただ体を生かしておくための栄養補給ならサプリメントとかでいいじゃん」

 あたしは、あたしの魔法使いとさよならしてしまったから、もう食べたいものなど何もない。

 だけど、拒食期を乗り越えた後にやってくる過食期になれば、また意味もなく胃の中に食べ物を詰め込む作業をあたしはしてしまうのだろう。

 どれだけ食べたって満たされることなどないというのに……

 だって、本当にあたしが食べたいのは食べ物じゃないのだから。(Fin)
 
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