1. 無料a

05 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 07

『鬼畜の戯言』菊池乱☆出版社の倒産により現在電子書籍配信ストップ中

秘密クラブからレンタルされる豊胸女装美少年レンタルドールシリーズ(SF/SM/BL/ML/JUNE/GID/女装/TS/etcな小説)言論と表現の自由を守ろう!不当なネット規制反対!不適切な規制は解除すべきです!!

ライフメディア

ブログランキング参加中

FC2アクセスカウンター

オンラインカウンター

Twitter...

カテゴリー+月別アーカイブ

ブログ内検索

RSSフィード

プロフィール

FC2プロフィール

どこでも読書QR(docomo)

どこでも読書QR(au)

どこでも読書QR(ソフトバンク)

QRコード

By FC2ブログ

日本語→英語 自動翻訳

お知らせ

出版社の倒産により現在電子書籍の配信が休止となっております。報告のあったダウンロードのコミッションも私はまだ出版社から一円も受け取っておりません。お金よりも作品の公開権利のほうが大事なのでとりあえず担当の方に相談してみてから電子書籍以外での公開という形での作品の公開を再開したく思っております。

2015年12月24日

こねこ時計 ver.3

CATS
Sweets
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。

地球の名言Ⅱ


presented by 地球の名言

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Posted on --/--/-- --. --:-- [edit]

スポンサー広告  /  TB: --  /  CM: --

神経衰弱で誤魔化すな!~芥川龍之介の場合~ 

菊池が中学生あたりでほとんど読破していた好きな作家は、芥川龍之介。




あの時代の作家にしては、実に読みやすい文体で代表作は短編ばかりであったから、キレの良さにうならされた。




無駄がない。





あとちょっと余計に書き足せば蛇足になったかもしれないところで、実に思い切りよくスパッと切り上げている。





あの斬新な思い切りの良さは菊池好みであった。





芥川の師である夏目漱石が芥川の作品を絶賛したわけは、なんとなく菊池にもわかるような気がする。





なぜなら、夏目漱石は菊池と同じ病いを患っていたからである。





そこらへんの事情については、後日「夏目漱石の場合」で書くのでちょっと今は置いておく。





あの時代の文豪は、精神やられるとたいてい「神経衰弱」と診たてられているが、現代の精神医学から検証した結果、精神病であったことがわかってきている。





芥川龍之介の場合は、精神分裂病であった。





今でいう統合失調症である。





自殺も病気のせいであったのではないかと思われる。





芥川の『藪の中』という作品は、芥川にしてはめずらしく矛盾した記述があり、文学研究者たちがいくら研究してみても、





「真相は藪の中」




という状態。




そりゃあそうだ、書いてた芥川も既に妄想に捕らわれていたのだから。





作者の芥川本人にもあの真相はわからない状態であったのではないのだろうか?





菊池はそう疑っている。





病状が少しずつ進行していた時期で、芥川は時々妄想や幻聴に悩まされるようになっていたのではないのだろうか?





30才の時に芥川は『藪の中』を出版しているが、その前年中国へ新聞社の視察員として赴いた際に上海上陸早々に乾性肋膜炎を患い三週間入院している。





長い船旅は、芥川の体だけではなく精神の方にも大きなダメージを与えていたのではないのだろうか?





精神分裂病(統合失調症)は様々な症状が出る。





同じ病名でも症状には個人差がある。





ただし、妄想や幻聴は比較的共通して現れやすい症状といえる。





幻聴は恥ずかしくて人には言えない内容であることも多々あるという。





そのため病気の発見が遅れることがある。





『藪の中』を執筆中だった芥川は病気の症状による妄想を書いてしまい作品内に矛盾が生じてしまっていることに気づかないまま原稿を出してしまったのではないのだろうか?





作中の誰かがなんらかの意図をもってうそをついているとは、解釈しがたいあの作品は芥川の病気の症状が進んでいた証拠とも考えられる。





ちなみに、教科書や著書の芥川の写真はヘンなのが多いけれども、芥川は太宰と並び評された文壇の美男子であった。





妻帯者でありながら女性関係もなかなか派手であったが、特定の愛人がいた太宰と比べるとそこらへんを取り沙汰されないのは、芥川が特定の女性に執着することがなかったからかもしれない。





母と同じように狂っていくことに恐怖感を抱き、次から次へと救いを求めて違う女性の元へ…といったところか?





しかし、誰も芥川を「発狂の恐怖」からは救ってはくれなかった。





それどころか芥川はストーカー被害に遭い女性に悩まされもした。





晩年の芥川は心中相手を求めた。





一人で死ぬのは怖かったのだろう。





ところが、芥川は相手の女性に裏切られ、後日一人で睡眠薬を致死量飲んで死んでいった。





芥川龍之介享年35才。





病院で睡眠薬を処方されても芥川の病気は治る病気ではなかった。





現代医学をもってしても完治はしない二大精神病の一つと言われる病気を、あの時代に投薬治療で病気の進行を止め安定させるなんてことは到底無理な話だった。





ただ、妻と心中しようとしなかったのは、子供たちのことを考えてのことであったのだろうか?





芥川の遺書には、子供たちへの教訓めいた言葉が八つの箇条書きで遺されていた。








もしも芥川の母が発狂しなかったら?





両親が共に大厄の年に芥川が生まれなければ?(縁起が悪いので形式的に捨て子しなければならなかった)





たぶん、幼少期を自分の身の置き所が不確かな不安定な状態で芥川が過ごすことはなかっただろう。





精神分裂病(統合失調症)は遺伝因子が絡んでいるが、発病には幼少時の養育環境やどのような暮らしをしてきたかも関連性があるのでは?と研究されている。





生まれてすぐに母方の祖父母に預けられ伯母に育てられた芥川は、新原家の長男でありながら12才の時にやっと正式な養子縁組で「芥川龍之介」としての身上が安定した。




賢い少年が12になるまで自分の立場が安定しない状態で発狂の恐怖に怯え苦悩しながら育ったのだとしたら、それは発病の可能性を高めてしまった一因になったとも考えられる。





親子で続いて精神分裂病(統合失調症)発症は確率的には低いため、発狂したとされる芥川の母は出産うつや躁うつ病だったのでは?と疑っているが、これは単なる推測にすぎない。







精神や神経疾患を患っていた著名人リストはこちら


http://hyousu.net/archives/2008/05/post-20.php





ランキング参加中!

ぽちっと押していただけるとうれしいです♪

読者登録も歓迎です(^^)

☆人気ブログランキング☆




元祖「鬼畜の戯言」ブログ

http://kitikunotawagoto.blog109.fc2.com/



おりおん☆でも書いてます。『菊池 乱』で検索どうぞ。


http://de-view.net/
  


スポンサーサイト

Posted on 2009/03/05 Thu. 04:45 [edit]

クレイジーな文豪たち  /  TB: 0  /  CM: --

明治・大正・昭和の神経衰弱とされている文豪たちは、精神疾患を抱えていたからこそ書けたのである! 

著名人の精神疾患リストを参考にさせていただいていたサイト様が閉鎖してしまったので、「クレイジーな文豪たち」のテーマで書けないでいた間は実は自力で資料集めをしておりました。

年譜とエピソード、あるいは作品から推測する形になりますが、病んでた昔の文豪たちについてまた書きたいと思っております。

昔は、たいてい精神を病んでしまった人の病気については、重症ではないようなら「神経衰弱」、重症なら「発狂」と呼んでいたため、明確な病名がわからなかったりします。

先に書いた芥川龍之介も病んでいたけど、その師匠の夏目漱石もまた違う病気を患っていました。

太宰治、三島由紀夫も病んでた方々です。

しかも、後者は複数の精神疾患の病名がつくであろう状態であったため生きるのが難しかった。

体じゃなくて精神的問題から彼らは長くは生きられない状態にあったのです。

ただし、彼らが心身ともに健康で長生き出来た場合を考えてみると、あのような文学作品は生み出されることはなかったと言っても過言ではないでしょう。

あれは、病んでいた人間にしか書けない文章、文学であったからです。

健康な人間の書くものと病んでいる人間の書くものは根本的に異なるもの。

病んでいる人間の視点や思考は病んでみなけりゃわからない。

時には何か憑きものにでも憑かれたようにひたすら書き綴ることもある。

あれは考えたものではなく舞い降りてきたものだから。

自分以外の何者かが頭の中で話している事柄を口述筆記していることもある。

病んだ文豪たちがおそらく持っていたであろう能力は、インスピレーションとシャーマニズム、カリスマ性。

ある種の精神病を患って病んでいた文豪は卑弥呼クラスの「巫女(シャーマン)」になる瞬間がある。

作家ではないが、昔の新興宗教の生き神様の中には、躁病であったのではないかといわれる人物もいるし、べらぼうに強かったけれども奇行エピソードも残っている力士や格闘家にも躁病と思われる人物がいる。

超人ナポレオンも躁病疑惑のある人物であるが、彼の場合はホルモンバランスに異常があったのではないかとも思われる身体特徴記録が残っておりそこのところも気になっている。

個人的には、数々の奇行エピソードを残している南方南熊も躁病であったのではないかと疑っている人物だったりする。

病んでも、生きながらにして神様になる者、英雄になる者、奇人・変人呼ばわりされながらも勝ち組に属する者もいる。

その一方で、上に名をあげた文豪たちが生きた時代には、発狂のレベルまで到達して狂人として座敷牢に死ぬまで閉じ込められた人たちが存在していたことは事実である。

だから、芥川はあんなにも自分が発狂することに怯え恐怖していたのである。

芥川の場合は、発狂した母親の血を受け継いでいる自分ももしかしたら発狂するかもしれないという不安と、発狂した場合は母親と同様に狂人として間違いなく死ぬまで閉じ込められるであろうという二重の不安があった。

本人的には生き地獄である。

ギリギリのラインで死ぬまで作家で有り続けた文豪たちは、なぜその病気の投薬治療法がなかった時代に生きながらえ創作活動を続けられたのか?

ヤンデレラ菊池は、病んでない研究者の方々とは異なる視点でもってそれを解き明かしていきたく思います。

次回は夏目漱石について書く予定ですが、気が変わったら寄り道するかもしれません(笑)


緊急事態発生!「ラパーチェの犬たちを助けて下さい!!」
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へにほんブログ村 病気ブログ 医療・医者へにほんブログ村 メンタルヘルスブログ メンヘル 家族・友達へ知らないの?世の中男と女だけじゃないのは常識だよ!☆電子書籍配信中☆-ホワイトデイクリック受付中!
もしかしたらみんなのクリックでなにかを変えられるかも?ランキング応援お願いしますm(__)m
☆人気ブログランキング携帯投票☆芸術・人文→人文→小説へとサブカテゴリー移動して下さい。

☆PCからの電子書籍「女心のガイドブック」のダウンロードは以下をご利用下さい☆
『楽天ダウンロード』『PDA book』『ウェブの書斎』
★携帯からは『どこでも読書』からダウンロードしてお読みになって下さい。著者名で探す「菊池乱」で検索すればみつかります。

Posted on 2009/03/06 Fri. 12:19 [edit]

クレイジーな文豪たち  /  TB: 0  /  CM: --

夏目漱石~奇妙な養子生活と忘れられぬ初恋~ 

夏目漱石は慶応3年(1867)2月9日、現在の東京都新宿区喜久井町1番地で生まれた(本名金之助)

名主の家の五男で8人目の子供で末っ子。父50歳、母41歳の時の恥かきっ子であった。

生後間もなく古物商に里子に出されたため実母の母乳は与えられていない。(1歳未満での里子やら実母の母乳をあまり与えられずに育ったという点は弟子の芥川との共通点である)

実母の乳が出なかっため、漱石は夏目家に女中に来ていた者の乳の出る姉夫婦のところへ里子に出されたのである。(実母ちゑは漱石14歳の時に死去。弟子の芥川の実母も芥川が10歳の時に死去。早くに亡くした実母からの愛情には恵まれなかった師弟のようである)

しばらくして古物商からは戻されたが、明治元年(1868)11月、今度は以前夏目家の使用人であった塩原昌之助、やす夫婦の養子となった。漱石1歳の時であった。

明治2年頃、疱瘡(天然痘)を患った3歳の漱石の顔には傷痕が残り、本人は成長してからあばた面であることをひどく気にしてコンプレックスに思うようになる。(そのため漱石の写真は顔のあばたが気にならないようなポーズで撮影されている。修正をかけている写真ももしかするとあるかもしれない)

知らないの?世の中男と女だけじゃないのは常識だよ!☆電子書籍配信中☆-1912日9月13日夏目漱石

明治7年(1874)、養父の昌之助が未亡人の日根野かつと不義な関係になったため夫婦の間でいざこざが絶えず、その結果養母やすと一緒に一時夏目家に引き取られた。(やすが夏目家の元女中であったためか?)

同年、塩原家は新宿から浅草に引っ越したので、漱石は浅草の小学校に入学(現在とは学制が違う)。この間にやすは離縁、昌之助は内縁関係ではあったが日根野かつとその連れ子のれんと生活を始め、漱石も養父のもとへ帰ることになった。

漱石の父夏目直克は、元使用人の塩原昌之助の後見人のような立場にあったらしく、就職の斡旋をしたこともあったようである。

それにしても、塩原家の当時の複雑な家庭環境へ、一時は養母のやすとともに実家に引き取った漱石を戻してしまったのは、なんとも不可解な点である。

普通はそのような状態の家へ戻すのはやめようと親は思うのではないのだろうか?

漱石の実家の当時の詳しい台所事情がわからないためなんとも言えないが、子供の頃の漱石は実家ではあまり大切にはされていなかったような気がする。

結局、漱石は明治7年の暮れから明治9年の5月頃までの間、日根野かつの連れ子のれんと同じ家に住み、同じ小学校に通ったと思われるのだが詳細は不明である。

ちなみに、れんは漱石より一才年上のかなりの美少女であったらしい。

漱石の初恋の君で永遠の心のマドンナは、日根野れんであったのではないかと私は推測している。

漱石のようなまじめな人物は、まわりがあきれ返るくらい一途なのである。

まじめだからこそ、片想いでもびっくりするくらい長い間想い続けることができる超ロマンティストにもなれるのである。

ところが、明治9年(1876)の11月頃、実父の夏目直克と養父の塩原昌之助は昌之助の就職問題をめぐって大喧嘩をし、怒った直克はなんと籍はそのままにしておいて塩原姓のままの漱石を自分のところへ引き取ってしまった。

しかし、漱石はそのあともしばしば塩原家へ出入りしている。

れんに会いたくてなにかと口実作っては、漱石は塩原家を訪ねて行ったのではないかと思われる。

塩原昌之助が自分の老後の生活の安定のためには、漱石とれんの二人が結婚してくれれば好都合だと考えていた節があり、漱石も無意識のうちにれんは自分の許婚者であるという気持ちを抱いていたかもしれない。

明治12年(1879)、13才のとき東京府第一中学校(現日比谷高校)に入学した。この第一中学校を中退、その後二松学舎、成立学舎を経て、明治17年(1884)、18才のとき東京大学予備門予科(明治19年、第一高等中学校と改名)に入学した。

本人の漢文学・文学を学びたいという目的により第一中学校は自主退学して漱石は二松学舎へ通っていたのだが、長男の大助の反対によりこのような中退と入学を繰り返すこととなった。

この間、明治14年に母親のちゑが死去している。

おそらく実母の死により漱石は一時的なうつ状態に陥ったりもしたのではないかと思われる。

明確な証拠となりうるエピソードがないため、なんともいえないが、その後、ほとんど首席の成績を収めたという漱石の優秀さを伝える記述が残っているため、ここで新たな疑惑が出てくる。

漱石は軽躁状態による調子の良さによってうつから脱していたのではないのだろうか?

一般的に漱石が病んだのはイギリス留学がきっかけのようにいわれてはいるが、兆候は早いうちから時折出ていたものと私は思っている。

神経衰弱、神経症、うつ病、分裂病圏の病気、躁うつ病といった病名を漱石の場合はあげられているが、私は漱石は神経症と躁うつ病を合併して患っていたのではないかと疑っている。

可能性としては、最初にうつ状態に陥ったのは実母の死後、次は失恋時になにか異変があったと考えられる。

明治19年(1886)、漱石は成績不良のため進級することが出来なかったという説と、病気(虫垂炎)で入院したため進級試験が受けられずに落第したという説がある。

頭のいい秀才であった漱石は下戸で堅物であったから、落第理由としては後者の方が信憑性は高いと思われる。

しかし、もしも本当に一時的にでも成績が落ちた時期があったのならば、精神的ショックにより勉強が手につかないような状態に陥ってしまったことも考えられる。

その勉強が手につかなくなるほどのショックな出来事とは、漱石が自分の許婚者と思い続けてきた日根野れんの結婚が考えられる。

ちょうど明治18年か19年あたりにれんは結婚しており、漱石はこの時に大失恋している可能性があるのである。

大学を卒業して就職したられんと結婚するつもりでいたであろう漱石には、自分がまだ学生のうちに義父塩原昌之助(まだこの時は漱石は戸籍上は夏目に戻ってはおらず塩原姓のままであった)が目先の利益を取って、夏目家よりも富裕な家庭の陸軍軍人平岡にれんを嫁がせてしまったことはかなりショックな出来事だったのではないのだろうか?

塩原昌之助は日根野かつとは内縁関係であり、れんとも養子縁組はしていなかったはずなので、そういう身上では正式な結婚は平岡の身内には認められず、おそらくれんの美貌に魅かれたであろう平岡は内縁関係での結婚という形を取り、れんの養家である塩原家には経済的援助をする約束をしたのだろう。

漱石の心のマドンナであったと思われるれんは、陸軍中尉平岡周造と結婚(内縁関係)したが、勉強好きで結婚生活をしながら高等女学校(現御茶ノ水大学の前身)を卒業したというのだから、平岡の家が経済的に裕福な家であったことは窺い知れる。

結婚後は夫の任地にしたがってれんも東京を離れたが、再び東京に戻った時に偶然井上眼科病院で漱石と再会したということになっている。

しかし、このれんとの再会は石川悌二説によるものであり、漱石が井上眼科病院で会ったという女性とその恋については諸説がある。

密に許婚者とも思っていたれんが他の男と結婚したため、漱石は厭世家となりその悩みを後に親友の正岡子規に書き送ったりしている。

養父の塩原から「おまえは(れんと)結婚して塩原の家を継ぐんだぞ」といったようなことをそれとなく遠まわしにでも言われていたのだとしたら、漱石の方からしてみればれんの結婚は塩原に裏切られたようなものである。

本人たちの間でそのような約束はなかったにせよ、塩原の家では漱石とれんが結婚することは塩原と漱石の間では暗黙の了解的な事柄であっただろうから、裏切られた漱石の失望の深さが次第に厭世思考へとつながっていったとしても不思議はない。

子供の頃から10年以上、人生の半分以上を「将来はれんと結婚するもの」と養父の塩原の思惑により漱石は思い込まされてきたのだろうから。

明治21年(1888)、1月に今まで放置されていた漱石の戸籍が塩原から夏目姓に戻されたのは、同年9月の第一高等中学校本科第一部入学前に出来のいい息子を夏目家に戻しておこうという実父直克の配慮というよりも、養父の塩原がまじめで出来のいい漱石を利用しようとすることを防ぐためにおこなわれた緊急措置とも考えられる。(戸籍自体は、勉学で優秀な漱石が徴兵検査で甲種合格し出兵することになるのを防ぐために、漱石がまだ塩原姓であった明治19年に北海道へ本籍地の移動をしている)

大喧嘩の後、対立関係にあった養父の塩原と漱石の実父がなんとか話をつけて漱石を夏目姓に復籍出来たのは、れんが嫁いだことによって一時的に塩原の懐具合が良くなっていたためとも考えられる。

しかし、夏目姓に戻っても朝日新聞社へ入社して漱石は職業作家の道を歩むようになってからは、養父の塩原に金の無心などをされた。

塩原が金の無心をしてきた時期的にれんの嫁ぎ先の平岡から金が入らなくなったことが考えられるが……。

ところで、れんとの再会後も、自分の恋心を打ち明けることが出来ずに煩悶しているうちに漱石の松山行きが決まったのだとしたら、不義(不倫)覚悟で想いを告げることは出来なかったのだろうか?

それとなくれんに振られたと漱石が感じるような事柄がなにかあったのか?

松山に行ったあたりで漱石は「もうあきらめよう」と思ったに違いない。

なぜなら、親戚に勧められておとなしく見合いをしているからである。

れんは明治41年6月2日に41歳で死去しているが、年齢的に病死か?(漱石が恋したといわれている女性はほとんどが早くに亡くなっている)

その直後に書かれた漱石の作品には「文鳥ー五」、「永日小品」の中の「心」などがあり、その他漱石とれんとの交渉を窺わせるものとして「一夜」、「それから」、「門」、「道草」、「彼岸過迄」、「趣味の遺伝」等が挙げられている。

けれども、まじめで堅物でありながら、潔癖なロマンティストでもある漱石が、実際には初恋で憧れのきみであったれんを不義で穢すことなどできるわけがなく、れんは漱石の永遠のマドンナのままあの世へ旅立って行ったとも考えられる。

れんへの積年の恋情を昇華するために、漱石はれんの死後書きまくるしかなかったのではないかと思われる。

10年、20年、30年経っても…死んでも忘れられない、そういう人に出会ってしまったら心の中のその人の幻に恋し続けることになる。

漱石にとってれんはそういう存在だったのかもしれない。

他にも、心ときめかせてしまう女性に出会ったりもしただろう。

それでも、秘めたる恋に終わらせてしまったのは漱石らしい。

愛媛の松山へ行ってから見合いで出会った中根鏡子と婚約し、翌年新たな赴任先の熊本で結婚したのはれんへの未練を断ち切る意味合いもあったように思われるが、漱石はやはりれんのことを忘れられなかったようである。

漱石にとってれんはファムファタールであったのかもしれない。

心の奥底にれんへの消えない恋情を隠して結婚してしまった妻の鏡子夫人に対して申し訳なく思いながらも、妻に対する言葉は気持ちとは裏腹に、

「俺は学者で勉強しなければならないのだから、お前なんかにかまっては居られない。それを承知してゐて貰ひたい」

とそっけない漱石であったが、結婚後は体の関係のある不義だけはしなかったように思われるし、誠実な夫であろうと努力もしていたようには思われる。

その代り、漱石の欲望は違うところへ向かっていったため健康を損なうこととなったのだが……(続く)


緊急事態発生!「ラパーチェの犬たちを助けて下さい!!」
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へにほんブログ村 病気ブログ 医療・医者へにほんブログ村 メンタルヘルスブログ メンヘル 家族・友達へ知らないの?世の中男と女だけじゃないのは常識だよ!☆電子書籍配信中☆-ホワイトデイクリック受付中!
もしかしたらみんなのクリックでなにかを変えられるかも?ランキング応援お願いしますm(__)m
☆人気ブログランキング携帯投票☆芸術・人文→人文→小説へとサブカテゴリー移動して下さい。

☆PCからの電子書籍「女心のガイドブック」のダウンロードは以下をご利用下さい☆
『楽天ダウンロード』『PDA book』『ウェブの書斎』
★携帯からは『どこでも読書』からダウンロードしてお読みになって下さい。著者名で探す「菊池乱」で検索すればみつかります。

Posted on 2009/03/09 Mon. 08:01 [edit]

クレイジーな文豪たち  /  TB: 0  /  CM: --

夏目漱石~病のデパートだった文豪の最も重大だった病名~ 

晩年の漱石は病気のデパート状態であった。

精神の方は当時いわれていた神経衰弱、体の方は胃潰瘍と痔とリュウマチに悩まされていた。

大正5年(1916年)には糖尿病にも悩まされ、その年の12月9日、湯河原でリュウマチの療養をしていた間に胃潰瘍の大内出血を起こし吐血。

小説「明暗」執筆途中に49歳で死去した。

漱石最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ、

「ここにみずをかけてくれ!死ぬと困るから」

であったという。

俳句でも賞を取ったほどの漱石の辞世の句とは思えない。

まるで死ぬ気なっしんぐな気分のまま漱石は死んでいったのである。

文学博士号の授与は固辞した漱石には名誉欲はなかった。

が、クソ真面目な漱石は、死の間際まで、

「給与を払ってくれている朝日新聞社の小説原稿を仕上げる前に死ぬと困るから、しゃっきりするように水をかけてくれ!」

と言ったわけなのである。

この原稿を仕上げてしまうまでは絶対に死ねないと思い込んでいたに違いない。

最後の最後まで律儀過ぎるほどに律儀であるが、この発言は強迫神経症によるものとも思われる節もある。

また、そういう漱石の真面目な性格が漱石の死を早めたのだろうし、心身の病も進行させてしまったのかもしれない。

漱石の当時は神経衰弱と呼ばれていた精神の病を分裂病圏の精神疾患と推測している方々には、この漱石の最期の言葉でもって違うと言っておきます。

おそらく精神分裂病(現在の統合失調症)であれば、まさしく修羅場な状態であのせっぱつまってクソ真面目な最期の言葉は出てこなかったはず。

むしろ、本人も周囲の人も普通なら恥ずかしくて言えないような言葉が出てくる可能性が高かったのでは?

躁うつ病で強迫神経症であったと思われる漱石を「病状は分裂病だが、周期的なところは躁鬱病」と高良武久氏は診たてているが、高良氏に「病状は分裂病」といわしめた漱石の言動と行動パターンは強迫神経症によるものであったのではないかと思われる。


<神経症になりやすい4つの性格特徴>

・自己内省的、理知的、意識的である

・執着性が強い

・感受性が強い

・欲望が強い


上記は漱石に当てはまる性格特徴といえる。

欲の部分では、名誉欲はなかったが、漱石は実は「食」に関する欲求は強かったのである。

下戸で胃弱であった漱石は甘党で、アイスクリームやジャムが大好きで、ビフテキや中華料理などの脂っこい食事を好んだ。

療養中には、当時貴重品だったアイスクリームを欲しがり周囲を困らせたこともある。

ジャムはお気に入りで毎日のように舐め、医師に止められるほどだったという(「吾輩は猫である」には一ヶ月に8缶という具体的消費数の記述があり、漱石が猫の飼い主に自己投影して描写している部分があることを考えるとこの数字は参考にすべき数字かと思われる)

「これだけ毎日のようにジャム舐めてたら糖尿病になりますよ、漱石さん」

と医者じゃなくても注意したくなるほどの漱石の偏ったこの「食」への執着は食欲と執着性が結びついたもの。

一ケ月でジャム8缶なんて現代の一般家庭でだって消費しない数ですし、パンに塗らずにジャムそのものを舐めてその数消費するなんて問題外!

でも、漱石自身もさすがにジャム8缶は(おいしいけど)まずいだろうという自覚があったから、「吾輩は猫である」の中でその異常な消費量を書いているわけで、わかっちゃいるけどやめられなかったのは躁うつ病の症状によるものだったのではないかと思われる。

うつ時にはお酒が飲みたくなるという人が多いのであるが、下戸の漱石は飲めないもんだから、たぶんお酒の代わりの嗜好品として甘い物を求めたのだろう。

酒で酔う代わりに、甘くておいしい物を食べた時の多幸感に酔いしれたくて。

ならば通常のジャムの消費量からみて多過ぎる一ケ月でジャム8缶という量は、うつ時の深酒に該当するものと考えられる。

食事では、味の濃いもの、脂っこいものを好んだ漱石は、元々胃は弱い方であったのに消化の良くない物を暴飲暴食しがちだったようで、そういう食生活のせいで漱石は胃潰瘍の他に糖尿病まで患ってしまった。

痔にしたって、作家業で長時間座っていたことだけが原因ではないはずで、おそらく日頃の食生活に問題があったため、便秘と下痢を繰り返して痔になりやすくなっていたのでしょう。

ある意味、躁うつ病という病が胃潰瘍と痔と糖尿病という病までも呼び込んでしまったとも考えられる。

胃潰瘍と痔と糖尿病は二次災害というわけである。

リウマチは関係ないけどw

「食」に関する欲求と執着が強かった漱石は、自分の好きなおいしいものを食べること自体はストレス発散になったのかもしれないけれども、胃腸が弱かったことと好んで食べた物が偏っていたため、健康状態は劣悪な状態にしてしまった。

漱石の体の病気の大半は食生活のせいであったのである。

しかし、そういう食生活になってしまったのは躁うつ病のせいであったともいえるので、胃潰瘍で吐血して死んだとしても根本的な死因は躁うつ病が原因と考えてもいいと思う。

ちなみに、漱石の遺体は死後解剖され、寄贈された脳は今も東大医学部にてエタノール保存されている。

漱石の脳の重さは1425gであったというが、これは現代の平均的男性の大脳1350g+小脳135gを上回る重量である。(まだ続く)


緊急事態発生!「ラパーチェの犬たちを助けて下さい!!」
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へにほんブログ村 病気ブログ 医療・医者へにほんブログ村 メンタルヘルスブログ メンヘル 家族・友達へ知らないの?世の中男と女だけじゃないのは常識だよ!☆電子書籍配信中☆-ホワイトデイクリック受付中!
もしかしたらみんなのクリックでなにかを変えられるかも?ランキング応援お願いしますm(__)m
☆人気ブログランキング携帯投票☆芸術・人文→人文→小説へとサブカテゴリー移動して下さい。

☆PCからの電子書籍「女心のガイドブック」のダウンロードは以下をご利用下さい☆
『楽天ダウンロード』『PDA book』『ウェブの書斎』
★携帯からは『どこでも読書』からダウンロードしてお読みになって下さい。著者名で探す「菊池乱」で検索すればみつかります。

Posted on 2009/03/09 Mon. 18:46 [edit]

クレイジーな文豪たち  /  TB: 0  /  CM: --

夏目漱石~躁うつ病説の根拠と病状を自分の躁うつ病の病状から推測~ 

漱石の躁うつ病疑惑が高い根拠の一つとして引っ越し魔であったことがあげられる。

転地療養まであげたらキリがないが、家庭の事情で幼少時からあっち行きこっち行き状態で、小学校の時から何度も転校やら、入学と退学を繰り返しと本人不本意ながらも行き先が定まらない状態が続いた。

初めて漱石が自ら意図して気分転換のための遠方への引っ越しを試みたのは、愛媛県の松山へ教師の職を得て引っ越して行ったところであるが、躁うつ病患者が自らなんの病気かわからない時点で、引っ越すと気分転換になると引っ越しを繰り返すのとよく似た行動パターンを漱石はその後繰り返している。

熊本で鏡子夫人と結婚した時、4年3ヶ月暮らした熊本だけでも6回も転居しているし、イギリス留学の際にも下宿を転々としている。

東京へ戻ってからもすべて借家住まいで転居と療養を繰り返している。

病んでる自覚はあったため、引っ越し自体も転地療養のうちととらえて意図的に漱石は家など建てたりしなかったのだと思われる。

自分の持家など持ってしまったら、引っ越したくなっても引っ越せなくなるから(笑)

イギリス留学中、また神経衰弱(うつ状態)に陥ってきていることに気づいた漱石は自転車に乗り運動することで気分転換を試みたようであるが、場所が悪かった。

南仏の太陽光降りしきる下でそれをやったなら漱石の意図していたことはもう少しうまくいったかもしれないが、霧の街ロンドンでそれをやっていたのではあまり気は晴れはしなかっただろう。

運動と太陽光は必要としていたが、その両方をロンドンでは得ることは難しかったため、漱石は気分を変えるために居住環境を変えようと下宿を転々とし続けた。

この場合、下宿での人間関係の向上を求めていたともいえる。

人種差別に悩んだりもしていたようであったが、孤独感を感じていた漱石は当時のロンドンにはある程度の数の日本人留学生はいたため、同じ日本人である彼らと交流は持っていた。

明治34年(1901年)、化学者の池田菊苗と2ヶ月間同居することで、今まで不調だった漱石は菊苗からいい刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭しはじめようやく落ち着ける場を得たはずだった。

ところが、その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になったため、

「夏目、発狂」

の噂が流され、これを文部省が聞きつけ急遽帰国が命じられる。

実はこの時、発狂どころか、研究に身が入ってきた時に他の日本人留学生に邪魔をされたのである。

うつで引きこもったのではなく、研究に集中出来る状態になっていた漱石が急に付き合い悪くなったのを感じ悪く思った輩もいただろうし、他人に先に出世されるのはおもしろくないという輩もいただろう。

そういう漱石の足を引っ張りたかった輩が流した噂のせいで、明治36年(1903年)、漱石は日本に帰国した。

しかし、没頭しはじめたばかりだった研究を半ばにして帰国を命じられた理由がどうやら「夏目、発狂」の噂であったらしいと気づいた頃には、漱石はうつ状態になっていて長い船旅中うつに陥っていたのではないかと推測している。

長い船旅でうつ状態で休息していた間にエネルギー補充した漱石は、帰国後は講師を務めていた間は比較的軽躁からフラットな気分で仕事をしていることが多かったのではないかと思われる。

帰国後の漱石の病状には特徴があり、第一高等学校と東京帝国大学の講師として外に働きに出ていた時は無遅刻無欠勤状態で、教授や学生たちに精神病の疑いを持たれるような言動はなかったのであるが、どうやら家庭内ではひどかったらしい。

鏡子夫人の証言が、『漱石の思い出』夏目鏡子述、松岡譲(漱石の長女筆子の婿)筆録 文春文庫に文書として残されているので、一部抜粋するが、

「たしか三日めか四日めのことです。長女の筆子が火鉢の向こう側にすわっておりますと、どうしたのか火鉢の平べったいふちの上に五厘銭が一つのせてありました。べつにこれを筆子が持って来たのでもない、またそれをもてあそんでいたのでもありません。ふとそれを見ますと、こいついやな真似をするとか何とかいうと思うと、いきなりぴしゃりとなぐったものです。何が何やらさっぱりわかりません。筆子は泣く、私もいっこう様子がわからないから、だんだんたずねてみますと……」

といった出来事が帰国間もない時期にあったらしい。

これは、長女の筆子はまだ3歳やそこらの幼児で、漱石は36歳の時の出来事である。

子供が幼いうちに、しつけではなく、何度かわけのわからない手の上げ方をしたことのある漱石の顔には、実は赤信号が出ていた。

それは、なぜか『顔がゆだったように火照(ほて)っている時』であったという。

文字通り顔が赤くなって赤信号になっていたわけである。

そんな時には被害に遭ったことのある長女の筆子などは近づきもしなかったらしい。

父親の顔色うかがって近づいていい時と悪い時を判別していたようだ。

基本的に躁時は気分が良いものなのだが、不眠が続き思うように気晴らしも出来ないような状況に追い込まれ、イライラ感がつのってくると欲求不満と興奮状態になり手足の発汗や火照りを感じたりすることがある。

そういう時の自分の顔は鏡で確認したことがないのでわからないが、耳や頬が熱く火照った感じがすることがあるので、赤くなっている可能性は大である。

そんな時には、なにか些細なきっかけがあれば身近な物や人や動物に当たってしまうこともある。

そこに至るまで本人はずいぶんと辛抱しているのであるが、我慢の限界あたりでなにかきっかけとなることが起こればたまたまそばにいた(あった)人や物に当たってしまう。

それを我慢するには自傷行為に走るしかない。

これを私は「黒い躁」と呼んでいるのだが、漱石の赤い顔していた時に苛立って自分の子供にふるった暴力や室内での破壊行為などは「黒い躁」が原因であったと思われる。

講師として勤めていた間は、基本的に気分は軽躁気味かフラットな状態であったのかもしれないが、自分ではどうにもできないストレスは抱えていたわけで、その我慢の限界が家庭内で爆発してしまったのだろう。

イギリスから帰国した後の漱石は、かなり短期間で気分の変換が入れ替わるウルトララピッドサイクラータイプの躁うつ病へと病状が変化してしまっていたのだろうか?

赤い顔して人が違ったように暴力や破壊行為をした後、ケロッとして何事もなかったかのようにいつも通りのふるまいに戻ったりすることもあったようだ。

自分の仕出かしたことは覚えているのだが、バツの悪さと一々言い繕うことのめんどうさからは、もしかしたら漱石は逃げてしまっていたのかもしれない。

とりあえずひと暴れすれば気分はすっきりするので、家でやってしまいたい仕事や執筆活動に取り掛かるのに家族は犠牲にしてしまっていた部分はあったように思える。

家庭内でのそういった子供への暴力や破壊行為とジャムなどの甘味依存程度のもんでおさまっていたのだから、漱石の躁うつ病はそれほどひどいものではなかったともいえないこともないのだが、家族からしてみればおおごとだったのだろう。

当時の職場の一つである一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳の滝に入水自殺してしまったという事件があった。

藤村を叱責した時の漱石は、怒りっぽい時の躁状態であったのかもしれない。

その後、漱石は神経衰弱になり、妻子とも7月から約2ヶ月別居したという記録が残っている。

教え子を死に追いやってしまったと落ち込んでしまいうつ状態に陥ってしまったのだろう。

しかし、翌年明治37年(1904年)には、漱石は第一高等学校と東京帝国大学の講師以外に、新たに明治大学の講師も務めている。

うつ状態なら三校もかけもち講師する気力などないだろうから、妻子と別居してまで充電する必要があったその2ヶ月以外は、基本的には漱石は軽躁気味であることが多かったのかもしれない。

当時は子供はまだ長女の筆子と二女恒子と帰国後早々に仕込んだ三女栄子が生まれたばかりだった。

子供三人くらいなら経済的には無理にでも講師の仕事を増やさねばならないほどきついとは思われないのではあるが、漱石の躁傾向が強い無駄にやる気があり過ぎる時に明治大学の講師の話がきたのかもしれない。

ところで、子作りの面から病状の推測もしていきたいので、あえてそこにツッコマせていただきたいのだが、実は漱石の最初の子供を鏡子夫人は熊本で流産している。

明治30年7月の鏡子夫人の流産の前月は漱石の実父が死去しており、不幸続きで漱石も鏡子夫人も落ち込んだ年であったと思われるが、鏡子夫人も慣れない環境と流産のショックからヒステリー発症して川に飛び込んだりしたこともあった。

そんな状態で子作りなどしてはいられなかったのか?

鏡子夫人の様子をみて一年くらいは漱石自粛モードであったように思われる。

次に仕込んだ子供、長女筆子の誕生は明治32年5月であった。

明治34年1月漱石不在の日本に二女恒子が誕生しているが、明治33年5月に文部省よりイギリス留学を命じられた時は鏡子夫人自身も妊娠に気づいたか気づかないかの微妙なライン。

単純計算してみると2月か3月あたりには仕込み済みと思われるが……。

明治33年9月に横浜港から漱石はイギリス留学へ向かっているから、鏡子夫人が妊娠中であることはわかっていた。

遅生まれと早生まれの関係で長女筆子と二女恒子は学年では一学年差となっているため、実質年子と思っていい。

明治36年10月生まれの三女栄子は、時期的に漱石が帰国後即効仕込んだ子。

明治38年12月四女愛子誕生。

明治40年6月長男純一誕生。

明治41年12月二男伸六誕生。

明治43年3月五女ひな子誕生

明治43年11月五女ひなこ死去。

最初の子は流産で最後の子は早逝しているが、なかなかハイペースな子作りをしている。

夫である漱石がうつならこのような子作りの仕方は無理だ。

単極性のうつ病ではなく、漱石が双極性障害の躁うつ病であったことが推測される。

うつなら男は勃たない時もあるだろうけど、躁ならやる気倍増なんで躁いう時に仕込んじゃってたんでしょう。

躁時とうつ時の性欲の差は雲泥の差である。

躁状態の患者の興奮を薬を使わずにおさめる方法は、欲望のままに行動させることしかない。

具体的には、

・セックスしまくる

・食べまくる

・遊びまくる

・飲みまくる

・書きまくる

・歌いまくる

という具合に本人がその時持っている強い欲求を満たすまで「やりまくる」のが有効。

そのうち、さすがに疲れて寝ちゃうんで、そこまでやりまくれば薬なしでも落ち着きます(実証済み)

漱石の場合、子作りせっせとしつつ、論文や小説を書きまくったこと、好きなものを食べ続けたことが、勤務に支障のないよう躁うつ病と共存できた理由かと思われる。

しかし、朝日新聞社入社して職業作家としての道を歩むことを決めたことにより、漱石は自分の寿命を縮めた。

なぜなら、講師という職業に就いていたおかげで規則正しい生活リズムが乱れることがなかったのと、家にこもりきりになることもなかったから。

通勤やその他の移動で適度に「歩く」という運動もできていただろう。

そういう生活を捨てた結果、漱石は自らの寿命を削るようにようにして悩み苦しみながら書くこととなった。

楽しみで書く文章ではなく、締切に追われて書く、飯のタネとしての小説原稿。

しかも、終りまで先の長い長編小説の新聞連載であるから完結までは死ぬに死ねない…「明暗」は未完のままで死んじゃったけど(苦笑)

五女ひな子の早逝後、子供はもう出来なかったことと、胃潰瘍と痔の具合がだんだんよろしくなくなっていったことが、漱石をうつに陥らせてしまっていたことを暗に示している。

晩年の漱石はうつであることが多かったのではないかと思われる。

しかし、漱石の死ぬ前の年の大正4年(1915年)12月頃から、芥川龍之介が漱石の木曜会に参加するようになった。

死去する一年前に出会ったこの芥川龍之介という愛弟子を、なぜ漱石が褒め殺しになりかねないほどの大絶賛でもって世に知らしめたのかを次回は書きます。(今までのはそれ書くための長い前置き^^;)

緊急事態発生!「ラパーチェの犬たちを助けて下さい!!」
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へにほんブログ村 病気ブログ 医療・医者へにほんブログ村 メンタルヘルスブログ メンヘル 家族・友達へ知らないの?世の中男と女だけじゃないのは常識だよ!☆電子書籍配信中☆-ホワイトデイクリック受付中!
もしかしたらみんなのクリックでなにかを変えられるかも?ランキング応援お願いしますm(__)m
☆人気ブログランキング携帯投票☆芸術・人文→人文→小説へとサブカテゴリー移動して下さい。

☆PCからの電子書籍「女心のガイドブック」のダウンロードは以下をご利用下さい☆
『楽天ダウンロード』『PDA book』『ウェブの書斎』
★携帯からは『どこでも読書』からダウンロードしてお読みになって下さい。著者名で探す「菊池乱」で検索すればみつかります。

Posted on 2009/03/10 Tue. 19:55 [edit]

クレイジーな文豪たち  /  TB: 0  /  CM: --

更新の励みになりますのでぽちっとひと押し応援クリックお願い致します❤ 人気ブログランキングへ にほんブログ村 小説ブログ 長編小説へ
にほんブログ村 トラコミュ 規制反対!ネット小説の表現の自由を守れ!へ
規制反対!ネット小説の表現の自由を守れ!
規制反対!創作物の表現の自由を守ろう!!

規制反対!創作物の表現の自由を守ろう!!

[Amebaグルっぽ]
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。